.

私のプロフィール

 

『私の書き方教室』へはここをクリックして入ります 増田 友起 ますだ ともおき

.人生は束の間の航海と見たり。

 30代後半の僅か4年数ヶ月間ではあったが米国駐在時代は「キャプテン・トム」の愛称で呼ばれていたことも今では遥か遠い思い出となる。この駐在で最大の収穫は日本とは対照的な彼我の文化の違いを知る。仔細な評価はともかくとして『自由とは自律心と進取の気性と奉仕の精神と責任感のある自立した人々に許されるもので、決して我侭放縦の行為を許容するものではないこと。そして個人の権利の主張には社会的義務の遂行乃至は公益が優先すること。公は私のために、私は公のために奉仕すこと。そのために家庭と地域社会と公教育が連携して個の確立を支援し自立を促すこと。』という精神基調で貫かれた社会システムや人々の暮らし振りを体感。

 今日までの私の人生に多くのチャンスと示唆と有形無形の支援や友情や理解を賜った無数の友人・知人・同僚・諸先輩の皆様方には感謝の意を銘記してもなお足りないものを感じている。

 これまでの上陸地は、日本全国を振り出しに米国、カナダ、台湾、香港、タイ、マレーシア、インドネシア、ドイツ、チュニジア、イタリア、エジプト、フランス ・・・・ 昭和58年(1983)に妻曰く 『私が拾ってあげた』 から平成15(2003)年4月9日まで東京都台東区下谷2丁目に居住。同年4月10日荒川区南千住3丁目(都市基盤整備公団リバーハープコート南千住団地)に転居。2013年1月再び出発地に戻る。

 趣味はさりげなくクラシック音楽を聴くこと。ショパンやラフマニノフのピアノ曲それにモーツアルトやシャンソンなど詩情あふれるものならなんでも。 そして、ライフワークとしてのホームページ・デザイン--------August 7, 2002

 昭和18年(1943)8月7日(父のメモによれば7月27日/陰暦6月24日/午後9時半)高知県宿毛市山北874番地で9人きょうだいの8番目に父・増田源一郎と母・榮恵(旧姓・島津)の5男として生れる。星座はしし座。満3歳の晩秋までに、沖縄特別攻撃隊員の兄がひょっこり台湾の台中陸軍航空部隊から生還((1946年(昭和21年)12月21日 昭和南海地震の発生時、兄が軍隊時代のアルバムを抱えて家の外に出ようとしたが振動がひどくて脱出できなかった記憶から兄の帰還時期を推定))。兄の携帯食缶詰パイナップルを囲炉裏を囲んで食し美味に驚嘆したのがわが人生で最も古い記憶。5歳遅れて生まれた弟は肺炎のため生後2ヶ月で儚い生を閉じる。命の哀れを知る。中学進学数日前の事故で重度の頭部打撲傷を負い記憶喪失。後遺症として視野狭窄、聴力障害、めまい、立眩み、偏頭痛、運動機能障害、食欲不振、学習機能障害等で悩まされるが医薬の手だても無いままに命をつなぐ。このため中学時代はあまり学校の勉強に集中できず、同級生の証言ではひたすら空想に耽っていたらしい。従ってこの間の記憶は定かでない。

 中学卒業後は地元の高校へ数ヶ月通ったが中学時代の不勉強が祟った成績不振と家庭の事情により学業を断念。迷走の人生が始まる。大阪の小さな製本屋を振り出しに、新聞配達、道路建設のアルバイト、陸上自衛隊、戦闘機製造&サービス、陸送ドライバー、マイクロモータ製造&検査、自動車部品製造、路線トラック乗務、不動産販売、再び自動車部品製造、テストドライバー、米国駐在、輸出車両等のサービス&クレーム処理、自動車用サービスマニュアル作成コーディネーター、etc., 58歳でリストラと激動の人生を歩む。イゴッソで頑固な土佐ッポとはいえ酒は親父の代で飲み修め卒業。自らは専らソフトドリンクでこよなく海と船と芸術と科学と妻と一男一女の家族とふるさと日本をこよなく愛して止まぬ子育て最中の未だに好奇心旺盛な、それ故か、わが子らの曰く『お父さんが一番子供だよ!』ということらしい。

 退職を機に“ゼロ”からホームページ・デザインの勉強を始める。無名のウエブサイトデザイナーとしてネットの海原に航海を志すが再就職もままならずウェブに公開して人生の再出発を期す。目標はシンプルで明快な主張を持った魅惑的なホームページの作成を通して、誰でも安心と親しみの持てるネット文化を創出すること。そして、高齢化時代を自立した生活者として過ごせるようライフワークを持つこと。


えむネットコミュニケーションズへのメールはこちらからホームへ戻る